いつから始めたのか、定かな記憶はないのですが、いつしか習慣のようにやっています。
特定の宗教を信仰している訳ではないので、具体的な神様とかを想像して祈ってはいないのですが、“人知を超えた何か”に向かって、祈っています。
手術というのは、メスの持ち方から器械の動かし方まで、全ての動作に合理的な理由があり、無駄がありません。
それでは、ある手術の手技を全て無駄なく合理的にマスターしたら、手術を問題なく完遂することができるのでしょうか?必ずしもそうではない、とういのが現実ですが、上手くいかなかった時には、必ず合理的な理由があります。
たまたま上手くいかなかったというのは、ない。でも、なぜだか解らないけど上手くいった、ということはありえます。このようなときは、いくら考えても合理的にこうやったから上手くいったと説明できない、割り切れないものを感じることが多いです。
このような事象を幾多と経験してくると、この“なぜだか解らない”ことを操っている“何か”の存在を感じるようになります。少なくとも私は強く感じるのです。“他力本願”とは違う、どちらかというと“人事を尽くして天命を待つ”の“天命”のようなものです。
しかし、この“天命”というか天佑神助は、人事をつくしたら必ずやってくるわけでない。ただただ、死力を尽くせばよい、という訳ではなさそう。
その答えの一つが、祈り、だと思います。神様助けてください、と祈るのではなく、心を限りなく透明にして、ノイズに紛れて聞き取れないような微細なシグナルを聞き取れるようにアンテナの感度を上げておく、いわば儀式のようなものです。
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