現WBA世界ライトフライ級王者 田口良一選手が来院されました!

WBA世界ライトフライ級王者田口良一選手が来院

昨年12月にカルロス・カニサレス選手と対戦し、ライトフライ級王座防衛に成功した田口良一選手がときわ台村中眼科に来院されました。小柄な体格と、優しい風貌で一瞬ボクシング選手であることを忘れさせるのですが、その肉体と精神はさすが世界王者だと感心します。今後も世界王者を維持できるよう、眼科医として彼の目を全力で守っていきたいと思います。

 ボクシングに限らず、スポーツをする際に目は命です。ただ、格闘技でも、球技でも、武道でも眼のケガは比較多く遭遇します。当院では、プロ、アマ問わず皆様が安心して快適にスポーツできるよう、眼科医として皆様の眼の健康を守っていきたいと思います。

 田口選手、2017年7月23日に6度目の防衛戦が決まったそうです。頑張れ!田口選手! ときわ台村中眼科は、頑張るスポーツ選手を応援しています!

院長の夏休み!

 私は、ここ2年ほど、白内障手術メーカーのアルコン社(https://www.alcon.co.jp/)さんと、逗子で子供達のフィールドワークを主に主催している原っぱ大学(http://harappa-daigaku.jp/)さんのご協力のもと、夏休みの最後に日本アルコン社内の、眼科研修医の手術トレーニング室をお借りして、小中学生の子供達に、ブタの目を使った眼の解剖と、白内障手術を指導しています。

 医学部卒業後、毎日毎日、目の事ばかり考えて生きてきましたが、そろそろ次世代の育成にも力をいれなくては、と思っており、いろいろな方のご協力のもと、小中学生相手に、目の素晴らしさ、美しさ、手術の緻密さや、手術器械の精密さを、実物を触れて体験してもらいました。

 豚の眼を子供達自らキャーキャー良いながら解剖し、透き通った綺麗な水晶体を摘出してもらいました。また、本来透き通った水晶体が白濁してくるのが白内障という病気であることを知ってもらい、実際に当院でも使用している白内障手術器械と同等の器械を使って、豚眼の手術をしてもらいました。

 どの子達も、目をキラキラさせながら、手を動かしており、教えるこちらとしても、とても良い時間を過ごせました。これら子供達の中から、未来の眼科医療を担う人材が、一人でも誕生してくれたら嬉しいです。

 今回のワークショップは、日刊工業新聞にも取りあげてもらいました(http://newswitch.jp/p/5904)。

コラム1609

 

老眼が教える、ヒトの動物としての寿命

こんにちは。板橋区にある、ときわ台村中眼科の村中です。

本日のコラムは、「老眼が教える、ヒトの動物としての寿命」です。

人類が誕生して400万年とも800万年とも言われていますが、いつから人類はメガネで矯正する方法を手に入れたのでしょう?

それは、長い長い人類の歴史からすると、つい最近と言っていい13世紀後半にヨーロッパだったと言われています。それでは、それまでの人類は、近視や老眼になったらどうしていたのでしょうか???

“人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり・・・”

有名な敦盛の一節ですが、日本人の平均余命が50才を超えたのは、実は最近で戦後間もない1947年です。つまり、つい最近までは、人類はパソコンもテレビも電灯もない世界で生きており、近視になる人はほとんどおらず、また、老眼になっても困る前に一生を終えていた・・・。

だから有史以前の人類にはメガネも眼科医も必要なかった、というのが上記の問に対する答えになると思います。

神様は、きっと50年くらいの寿命を想定して、人体を作ったのだと思います。その想定を超えて長生きできるようになったため、メガネが必要となってきた。少し皮肉な感じもします。

メガネを日本に伝えた人は、有名なあの人!

こんにちは。板橋区にある、ときわ台村中眼科の村中です。

本日のコラムは、「メガネを日本に伝えた人は、有名なあの人!」です。

 

16世紀中頃、キリスト教宣教師、フランシスコ・ザビエルが、周防(山口県)の大名、大内義隆にメガネを贈ったのが最初と言われています。教科書でよく見覚えのある、あの方はキリスト教だけでなく、メガネの伝来にも関わっていたのですね。少し不思議な気分になりますね。

花粉症治療はじまっています

こんにちわ。

ときわ台村中眼科の村中です。

この時期は花粉症にお悩みの方がたくさん来院されます。

当院でも目に関して花粉症の方へベストな治療が提供できると自負しておりますので、花粉症でお困りの方は一度ご来院ください。

>> 花粉症のページはここをクリック <<

院長の器機に対する想い_術者の憂鬱

 

  大リーグで活躍するイチロー選手が、あるところでこのような事を言っていました。“何年かプロでレギュラーをやっていると、野球が難しくなってくる。難しさだけが感覚として残っていく、それがメンタルを蝕むような、そのようなことを体験する。” 

 これは、熟練した術者が経験する憂鬱と、同じ感覚なのだと思います。傍から見たら、めちゃくちゃ野球が上手で、皆の憧れでも、本人はそれで良しとしていない。

 結局のところ、究極の名人とは、中島敦の“名人伝”にでてくる弓の名手紀昌のように、最後には“至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし”と言って、追求する技そのものを忘れてしまうのかもしれません。まだ、私はその境地には至っていませんが・・・。

院長の器機に対する想い_道具と人

ヒトは道具を作り、使うことにより人間になった、と言われています。道具をどう扱うか、これに関しては、人それぞれ様々でしょうが、私が一つ理想としている型があります。

“大空のサムライ”の著者で、元ゼロ戦パイロットの坂井三郎氏が、生前インタビューで、“自分が最も脂がのっていたとき、ゼロ戦の主翼端が中指に、機体先端が眉間に感じられ、完全に飛行機と自分が一体化していた。”と答えていました。

これこそが、私自身が望む、器械との関係です。白内障器械にせよ、顕微鏡にせよ、手術の際、それら器械が自分の体の一部となり、自分の指先を思いのまま動かせるのと同様に、器械を意のままに操り、細部まで肉眼で見ているように自然に見える。このような関係を築ける器械を選び、一体化できるように日々研鑽しています。

院長の器機に対する想い_カールツァイス 

 

1846年創業、ドイツの精密光学機器メーカー。司馬遼太郎氏の“坂の上の雲”にも登場しますが、東郷平八郎大将が、日本海海戦時、首から下げていたのが、カールツァイス社製の双眼鏡であり、塚本克熊中尉が敵将ロジェストウエンスキー中将の搭乗する駆逐艦を見つけたのも、同社製の双眼鏡だったといわれています。

日本とドイツ、もの造りが上手な2つの国が、歴史の大切なところで関係していて、それが今に繋がっている。当院で使用している手術顕微鏡もツァイス社製です。

手術室に鎮座している顕微鏡を見るたびに、100年以上前に日本の歴史を変えた双眼鏡から脈々と続く歴史を感じ、顕微鏡を覗くたびに、ほんの少しシャキッとした気持ちになります。